なぜだろう

先日、小林麻央さんが亡くなりました。癌だとは聞いていました。でも別にブログも見たことがなかったし、あまり毎日の生活で気になったことはありませんでした。しかし、亡くなったというニュースを聞き、そしてこれまでの道のりを聞いた時になんとも言えない、自分の中では初めての感情が生まれました。なんだろ。とても口では説明できないんです。そして、自分の心に何かすごく訴えてくるものがありました。こんなに訴えかけられることは初めてです。多分自分は、恐れ多いですが、似たような事を感じるからだと思います。自分は不整脈だったじゃないですか。そして、今まで述べてきたように、どうせ不整脈で人よりも不利なんだから気張らずに自分のできる事をやろうという意味合いのことを散々述べてきました。そして、自分のその時その時に神経をとがらせて思いの儘を書いてきました。次元は全く違うのですが、引退という限られた時間の中で限られた能力の中で自分が今できることは何かを常に考えてやってきた。同じ構造にあるような気がしてなりません。なので僕は亡くなられたことがとても身近なものに感じられ、とても悔しいです。そして、小林麻央さんの身を思うととても辛くなります。僕自身、県大会で信じられない結果を残した時、自分こんなにもいけたから十分だろと思いました。しかし、時間が経つにつれ、もっと前からやれてたらもっと良くなったかもしれないと思うようになってきました。人間は欲深い生き物です。やったら次の欲、その次の欲というふうに欲が出てきます。そして、人間はその欲を満たすことが出来ます。自分が強く望めば、それに向けて努力をすれば、至誠を貫けば。そして、人間にはチャンスがあります。その欲を満たすチャンスがあります。そして、明日は誰にでも必ず来ます。僕ももっとこうしておけばよかったと思っても、まだ自分の陸上人生は終わったわけじゃないし、不整脈でも陸上が出来なくなるわけではありません。まだまだチャンスはいくらでもあります。死なない限り。そう、死なない限り。だから。だから、僕は自分の身で重ねて考えるとそれはとても信じ難いことであって、受け入れたくない現実で、他人事だけど物凄く辛く感じます。でも、そんな状況でも辛いことをおくびにも出さずに自分のありのままを述べてこられました。そして、最期には最愛の海老蔵さんに愛してると言って旅立たれた、と。こんなにも最期の最期まで、悔しさもあるだろうし様々に思うこともあるのに、死ぬ間際だというのに最期の最期まで人の事を考えていたなんて。その心はあまりにも美しく、その清らかさ、潔さに胸打たれました。そしてそれを看取り、最後まで、そして今も気丈に振る舞い、そんな中で見せる、海老蔵さんの覚悟。もう、とてもじゃないけど一生かかっても追いつけない。人の死を美化するのはあまり良くない事だと思うが、それでも美しいと感じずにはいられなかった。僕はそこに本当に汚れのない女神のようなものを見た気がしました。